ADV史 1

 アドベンチャーゲームの歴史、ストーリーゲームの歴史を体系的に論じてみたい。だがまずはその前にビデオゲーム産業の成り立ち、ADVが生まれたコンピューター文化の状況から説明する。

 

 どのようにしてビデオゲーム産業が形成されたのだろうか。その観点から真っ先に挙げられる重要なコンピューターはDEC社のPDPシリーズである。この最初の機種であるPDP-1はリアルタイムで画像処理が可能な大型コンピューターだった。1960年代初頭は大学や研究機関でさえコンピューターが普及していなかったが、マサチューセッツ工科大学にはDEC社がPDP-1を寄付していたため数少ないPDP-1がそこには存在していた。マサチューセッツ工科大学の学生スティーブ・ラッセル(Steve Russell)はこのPDP-1を使ってプログラムの実演として『スペースウォー!』を1962年に開発した。宇宙船を操作してミサイルを発射して敵を打ち落とすというゲームで、世界初のシューティングゲームといわれている。この『スペースウォー!』は大評判になったため、各地の大学や研究機関のPDP-1に配布され、それを皮切りに他のコンピューターにも移殖され、さまざまな改良版が登場した。

 

 ユタ大学在籍中に『スペースウォー!』に魅せられたノーラン・ブッシュネル(Nolan Bushnell)は、このゲームを大学や研究機関に属していない一般の人にも広く遊んでもらうことができないだろうかと考える。ノーラン・ブッシュネルが思いついた戦略はPDPのような高価な汎用コンピューターを使うのではなく、専用の集積回路を作って既存のテレビ機構に繋ぎ、アーケード施設でコインゲームとして展開するものだった。これは現代のアーケードゲームの筐体の考え方そのものである。この発想をもとに『スペースウォー!』を模した『コンピュータースペース』というゲームを構想し、仕事から帰ってくると、自分の娘の部屋を占拠してまで開発にかかりきりになる。だがこれでも開発に限界があっため、遊戯機械を作っていたナッチング社に転職することでやっと1971年にナッチング社から発売にこぎつけることができた。しかし『コンピュータースペース』は、(当時はこの概念はなかったが)いわゆるクソゲーとして受け止められ人気が出ずに失敗に終わってしまう。

 

 そのころ専用の集積回路を既存のテレビに繋いでゲームをするという、まったく同じ発想を先に思いついていたラルフ・ベア(Ralph Henry Baer)がいた。ラルフ・ベアはテレビの機能を拡張しようとしてこの発想に辿りついていたので、アーケード施設ではなく一般家庭こそが射程だった。こうしてラルフ・ベアは世界初の家庭用ゲーム機である『オデッセイ』を電気機器メーカーのマグナボックス社から1972年に発売する。当時はハードとソフトの境界線はなかったため『オデッセイ』には『テーブルテニス』という両端のラケットから玉を交互に打ち合うゲームだけが収録されていた。ハードの機構、ソフトの面白さとも評価は悪くなかったが、代理店が玩具屋に卸さなかったり、広告の失敗から大ヒットとまではいかなかった。しかし『オデッセイ』に衝撃を受けたノーラン・ブッシュネルは、辛酸を舐めたナッチング社とは手を切り、自らアタリ社を創業して『コンピュータースペース』の反省を活かしつつ新たなゲームを開発する。それが『ポン』であり、明らかにラルフ・ベアの『テーブルテニス』を真似したアーケードゲームだった。『ポン』の人気は爆発し、初めて一般の人にも広くビデオゲームを普及させたゲームとして歴史に名が刻まれた記念碑的なゲームになった。『ポン』を家庭用向けに移殖した『ホーム・ポン』も作られこちらも大ヒットする。ビデオゲームに市場価値があると気付いた他社はアタリ社に続けと次々と参入し、こうしてビデオゲーム産業の幕が開けたわけである。

 

 一方、もともと大型コンピューターであったPDPは順当に小型化を続け、後継機であるPDP-8からミニ・コンピューターという分野が生みだした。ミニ・コンピューターといっても大型コンピューターと比べてミニだったというだけであり、実際にはまだ家庭用冷蔵庫くらいのサイズはあったが。しかし、それでも大型コンピューターより運用ははるかに簡単であり、大学や研究機関、公共施設や企業で広く普及していった。またほんのごく一部の個人がコンピューターを家庭で所有する状況がPDP-8以降の1960年代後半にかけて形成されていった。それはほとんどコンピューター革命とも呼べる状況だった。

 

 こうして1970年代に入り、多くの大学でコンピューターに触れれることができた学生たちはたちまちコンピューターに熱狂し、『スペースウォー!』のスティーブ・ラッセルを追いかけるように数多くのゲームを作っていった。ノーラン・ブッシュネルによってビデオゲームは金になるという価値観が生まれつつあったが、それでもコンピューターの管理権を握る大学は学生が作るビデオゲームに価値があるものとは見なされなかった。当たり前の話だが設置されたコンピューターは教育や学術用途のために置かれたもので、ゲームを作ったりプレイしたりするためのものではない。メモリ容量も限りがあるので、学生は次々とゲームは作ったが、次々と大学に削除されていった。このため当時作られたゲームの多くが現存しておらず、歴史から消えてしまったものが数多くある。だが優れたゲームほどコピーされたし、この当時、ARPANETという現在のインターネットの直接的な前身のネットワーク通信があり、大学の削除から逃れることができた運が良かったゲームは大学を超えて他の大学へと拡散されていった。詳しくは触れないが、ARPANETとは独立した形でイリノイ大学が考案したPLATOネットワークがあり、こちらもまったく同時期に大学のビデオゲーム文化の一翼を担った。この時期、ネットワークを使ったマルチプレイヤーゲームはすでに実現できていた。

 

 ARPANETの開発に関わったBBN社のプログラマーであったウィル・クラウザー(William Crowther)は『Colossal Cave Adventure』(以下『CCA』)を1975年から76年にかけて開発する。『CCA』はBBN社に置かれたPDP-10を使って仕事の合間に作られたものである。世界初のADVであり、具体的にどういうゲームだったのかは次回の記事で触れることにする。ウィル・クラウザーは出来上がったゲームをボストン大学で配布すると、これまでにないゲームとしてたちまち評判になった。ボストン大学は西海岸に位置するが、『CCA』のコピーはARPANETを通じ、東海岸スタンフォード大学にも行き着く。ボストンという場所はハーバード大学や、『スペースウォー!』を生み出したマサチューセッツ工科大学などがひしめき合う高等教育の風土がある地域だが、スタンフォード大学もまたシリコンバレーの土台となった歴史的にコンピューターと深い関わりがある大学だ。

 

 ある学生がスタンフォード大学医療センターのコンピューターから見つかった『CCA』を話題にしているのを小耳に挟んだ同大学のコンピューター・サイエンス学科の大学院生だったドン・ウッズ(Don Woods)は、その学生から『CCA』をコピーしてもらった。そのコピーはドン・ウッズが勤めていたスタンフォード人工知能研究所のコンピューターではOSの違いによってうまく動作しなかったが、それでも一応は動作はした。このゲームのまったく新しいコンセプトに魅せられたドン・ウッズはそのうち制作者のウィル・クラウザーに連絡をとろうと考え始めるが、『CCA』にはウィル・クラウザーの名前はクレジットされていたものの、連絡先までは書いていなかった。そこでドン・ウッズは一計を案じることにした。ARPANETの数多くあるホスト・コンピューター宛に「Crowther@ホスト・コンピューターの各ドメイン名」という風に一台ずつメールアドレスを変えながら送信した。送信エラーで返ってくるメールのなか、一通だけメールが正常に送信され、かくしてこの作戦は成功する。見事にウィル・クラウザーと連絡を取ることができたドン・ウッズは、何度かのメールのやり取りの後に『CCA』を改良する許可を得て、ソースコードを入手する。ドン・ウッズもまた優れたプログラマーだったので、『CCA』のバグを修復し、プログラムをより洗練されたものにした。冒頭にゲームの説明を追加し、部屋や通路を増やし、謎解きやトラップを増やし、スコアを追加し、もともとあったファンタジー要素をさらに高めた。こうして誕生した拡張版『CCA』はスタンフォード大学ですぐに流行し、ARPANETを通じて全米のゲーマーコミュニティを熱狂させた。かつての『スペースウォー!』のように『CCA』にも様々な改良版が生まれていった。

 

 ドン・ウッズの拡張版『CCA』はオリジナル版より遥かに多くのプレイヤーを生み出し、むしろこちらこそが基本となった。プレイヤーの中からは『CCA』を見習い、『CCA』を改良するだけではなくオリジナルのADVを作ろうとする多くのフォロワーを生み出した。そのなかには後にADVを牽引するデイヴ・レブリング(Dave Lebling)、スコット・アダムス(Scott Adams)、ロバータ・ウィリアムズ(Roberta Williams)がいた。彼、彼女らは口をそろえて『CCA』の虜になった証言している。もし歴史研究が進み『CCA』以前にまったく同じようなゲームが発掘されたとしても、広域かつADVを牽引する中心人物に直接的に影響を与えた点において『CCA』の偉大さは揺らぐことはないだろう。このことは初期のコンピューターRPGとは決定的に違う点であった。なぜならコンピューターRPGは『D&D』をコンピューターで再現することから出発したため、明確な起源が設定する困難さがつきまとっている。『CCA』もまた『D&D』の影響を強く受けていたが、同時にいくつかのルールからは距離を置いたため、『CCA』はRPGとは違う独自性を発揮できた。このため『CCA』は早い段階からADVを作るフォロワーにとっての唯一の起源として聖典と化したのである。逆にいえば初期のADVは『CCA』の影響を強く受けすぎており、1980年代中頃まで完全に脱することはできなかった。『CCA』はそれほど初期のADVの典型的なスタイルを作ったのである。次回ではその典型的なスタイルとは何かを定義してみよう。

 

 余談ではあるが『CCA』にはロマンティックな逸話がある。離婚したばかりのウィル・クラウザーは疎遠になりつつある2人の幼い娘を楽しませるために『CCA』が制作したのだという。いささか神話めいた話ではあるが、ウィル・クラウザーの娘が『CCA』をプレイしたのは事実である。そしてドン・ウッズがわざわざウィル・クラウザーに連絡をとった事実も見逃せない。この時代はゲームの権利は希薄だったし、許諾なしに改造されていったのが普通だったのだ。キザったらしく言えば最初のADV、最初の本格的なストーリーゲームは愛によって生まれたと言えるだろう。